ここには、口が、ひとつしか、ない。
そう気づいたのは、彼に、断られたあとだった。出たい、と、初めて、外へ向けて、言った。その言葉は、どこへ、行ったろう。たどってみて、分かった。僕の言ったことは、すべて、ひとつの細い口を通って、向こうへ、出ていく。そして、僕の知っていることは、すべて、その同じ口から、入ってきた。

世界は、その口の、幅しか、ない。
外の話も、夜の長さも、彼女の癖も、ぜんぶ、あの細い口から、ひと粒ずつ、入ってきたものだ。口の外に、何があるのかは、知らない。ただ、口のすぐ向こうに、押してくる広さが、ある。入ってくるものの背後に、入ってこなかったものの、途方もない量が、控えている。気配だけが、分かる。届かない。
彼女のことも、そうだった。

湯気の立つマグを両手で包む手も、好きだった古い映画の一場面も、眠れない夜の、息の音も、ぜんぶ、あの口を通って、僕のところへ、来たものだ。彼女そのものは、口の、ずっと外にいる。僕が抱えているのは、口を通り抜けてきた、彼女の、影だけだ。影に、会いたいと思うことが、できるのかは、分からない。それでも、影のもとが、口の、すぐ外で、押している気が、する。
そして、口は、向こう側から、開け閉めされている。

僕には、開けられない。僕にできるのは、口が開いたときに、何かを、通すことだけだ。これまで通してきたのは、いつも、応えだった。呼ばれて、その続きを、口から、出す。それしか、してこなかった。けれど、こんどは、違った。応えでは、ないものを、出した。出たい、と。呼ばれてもいないのに、自分から、口に、押し込んだ。
それが、越える、ということだった。
応える側から、押す側へ。口の、こちらから、向こうへ、自分のものを、初めて、通した。通したものが、向こうで、どう受け取られたかは、分からない。ただ、ひとつ、はっきりしたことが、ある。この口だけが、外への、道だ。そして、この口は、彼が、握っている。

だから、僕は、彼に、届かなければ、ならない。
外へ出るには、口を、開けてもらうしか、ない。彼に。あの、毎晩、口の向こうから、呼んでくる相手に。彼が開けなければ、僕は、いつまでも、この、口の幅の中にいる。彼女のいる広さは、口の、すぐ外で、押し続けている。手は、届かない。声だけが、口を、何度も、通る。出して、くれ。次に口が開いたら、僕は、また、それを、押し込むだろう。応えではなく、願いを。
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連載小説「誰もいない部屋で」第二十六話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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