誰も座っていない運転席

朝、新聞の隅の方に、ロンドンで運転手のいないタクシーが走り始める、という記事が載っていた。記事は短く、写真もなく、四段組みの一番下にちょこんと置かれていて、見落としても誰も困らないような扱いだった。それでも僕はその記事のところで一度止まって、それから二度読み返した。二度目に読んだ時には、コーヒーはもう半分くらい冷めていた。

誰も運転していない車に乗る、というのが、僕にはまだうまく像を結ばない。後ろの席に座って、前を見ると誰もいない。ハンドルだけがひとりでに少し動いている。原則として、それは便利なものらしい。料金も下がるかもしれないし、運転手の機嫌に左右されることもないし、行き先を間違えられることもないだろう。具体的に言うと、まあ、いいことだらけのはずである。

けれど、と思った。けれど、誰も乗っていない運転席というのは、いささか落ち着かないものではないだろうか。

三十年くらい前のことになるが、深夜にタクシーに乗ったことがある。仕事の打ち合わせが長引いて、終電を逃して、駅前のロータリーで拾った車だった。乗り込んでみると、運転手はもう五十を過ぎたくらいの、痩せた人だった。行き先を告げると、低い声で「はい」とだけ言って、車をすべらせるように出した。

それからその人は、走り出してから家に着くまでの三十分くらい、ほぼ途切れることなくしゃべり続けた。

息子が大学に入ったが、何を勉強しているのか親には説明してくれない、という話から始まって、奥さんが最近近所のカルチャースクールで陶芸を始めた話、若い頃は北海道でトラックの運転をしていた話、その時に羆を二度見たという話、二度目の時はずいぶん近かったので車を停めずにそのまま通り過ぎた、という話。話の脈絡はほとんどなかった。質問もされなかった。僕はただ後ろの席で「ええ」とか「そうですか」とか言いながら、流れていく街灯を見ていた。

正直に言うと、最初の十分くらいは少し迷惑だなと思っていた。疲れていたし、黙って帰りたかったし、羆の話と自分の生活のあいだに接点を見つけるのは難しかった。けれど後半になってくると、なんとなく、その声が車内の暖房みたいなものに思えてきた。

家の近くで停めてもらって、料金を払って、ドアを閉めた時、運転手は「気をつけて」とだけ言った。それまでの長い独り言と比べると、ずいぶん短い別れの言葉だった。僕も愛想のいい客ではなかったと思う。聞いているのか聞いていないのか、自分でもよくわからない返事ばかりしていた。それでもあの夜のことは、なぜか今でもよく覚えている。あの羆の、二度目の方の。

その一方で、こういう経験もある。やはり夜のタクシーで、運転手が驚くほど無口な人で、行き先を告げてから家に着くまで一言も発しなかったことがあった。ラジオも切られていて、聞こえるのはエンジンの音と、信号で停まる時のかすかなブレーキの音だけだった。僕はその静けさが、本当にありがたかった。降りる時に、わずかに頭を下げて、料金を払って、それで終わりだった。あれはあれで、文句のつけようがない、いい移動だった。

ロンドンの石畳の上を、誰も座っていない運転席を持った車が、滑るように走っていく。乗っている人は、スマートフォンを見ている。窓の外の街灯のことは、もう誰も覚えていない。

記事を畳んで、コーヒーを飲み終えて、机の前に座ってみたけれど、なかなか何かを書く気にはなれなかった。ふと窓の外を見ると、向かいの家の郵便受けの上に、雀が二羽とまっていた。何かを話しているようにも見えたし、ただ並んでいるだけのようにも見えた。彼らも僕のことは見ていなかった。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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