ねえ、あれ、

先週の朝、新聞のテクノロジー欄に小さな記事が出ていた。首から下げると、その日交わした会話をぜんぶ録音しておいてくれる小さな機械があるらしい。アメリカで売り出されたものだという。記事を書いている人は、便利だ、しかしいささか気味が悪い、と書いていた。たしかにそうだろうな、と思った。コーヒーがまだ残っていたので、それを飲んだ。冷めかけていた。

便利だ、と書いた記者の気持ちは、原則としてわかる。人間の記憶というものは、いささか頼りない作りになっている。さっき妻が何を言ったか、もう半分忘れている、ということは僕にはよくある。妻が眉を上げると、そういえばそうだったかもしれない、という顔をする。だから、ぜんぶ録っておいてくれる機械があれば、夫婦の口論のうちのいくつかは、回避できるかもしれない。

でも、と僕は思った。本当にそうだろうか。

たとえばの話、もし僕の首からそういう機械が下がっていたとして、夜になって「さて今日の会話を聴き直しましょう」ということになったら、僕はおそらく逃げ出したくなる。今日の自分が誰かに向かって口にした言葉のうち、聴き直したいものなど、ほとんど一つもない気がする。むしろ、できることなら磁石のついた大きな消しゴムのようなもので、半分以上はきれいに消してしまいたい。失礼なことを言ったわけではない。たぶん。けれど、自分の声というものを録音で聴くのは、なんだか他人の家の冷蔵庫を勝手に開けてしまったような、落ち着かない気分になるものだ。

その一方で、もう一度聴きたくて仕方のない声、というものもある。

これは別の話になるのだけれど、十年ほど前まで、うちには小さな生きものがいて、長いこと家の中を歩き回っていた。鳴き声はそれほど大きくなく、夕方になると台所の入り口のあたりで何か小さく言うのが習慣だった。何を言っているのかは、結局最後までわからなかった。妻は「ごはん、と言ってる」と訳していたし、僕は「外を見たい、と言ってる」と訳していた。どちらも当たっていなかったし、どちらも少しは当たっていた。ある朝、その声は家のどこからもしなくなった。

それからしばらく経って、台所の引き出しの奥から古い乾電池が二本出てきた。単三だ。何に使っていたのか、妻に訊いても覚えていないと言う。僕も覚えていない。捨てるに捨てられず、新しい乾電池の袋の横に並べておいた。今もそこにある。使えるかどうかも確かめていない。

あの声を、僕はいまだに正確には思い出せない。高さも、長さも、どの音に近かったかも、もう曖昧になっている。録音しておけばよかった、と言われれば、たしかにそうかもしれない。けれど録っておかなかったから、僕は今もときどき思い出そうとする。引き出しを開けるみたいに、夕方の台所のあたりで耳をすませる。何も聞こえない。聞こえないということを、確認する。それでまた引き出しを閉じる。

記憶というのは、機嫌の悪い古本屋の主人に少し似ている。

僕という人間は、どうも人の話を半分くらいしか聞いていない種類の人間で、四十年以上、特に改善できないまま生きてきた。だから、首から下げる小さな機械があったら、もしかすると僕の人生はもう少し角の取れたものになったかもしれない。あるいは、ならなかったかもしれない。

ただ、そういう機械が世の中に出てきたという事実だけが、なぜか僕には少し気にかかった。みんなが自分の会話をぜんぶ録っておけるようになった世界では、聴き返さない会話の山と、もう聴き返せない会話の山が、別々の場所にどんどん積み上がっていくのだろう。前者は服のポケットの中で、後者は誰かの頭の奥の引き出しの中で。両方の山の高さは、たぶんいつまでも釣り合わない。

台所の窓の外で、隣の家の物干し竿の影が、午前と午後のあいだのちょうどいい角度になっていた。妻が冷蔵庫を開けて、何か言った。「ねえ、あれ、」と言いかけて、僕は——

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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