消去法でそうなる

病院の待合室で、古い雑誌の科学特集を読んでいたら、妙な話が載っていた。アメリカのどこかの研究者たちが、墜落した飛行機のコックピット・ボイスレコーダーから、亡くなったパイロットの声をAIで復元しているらしい。正確に言うと、録音そのものではなく、その録音を画像化したもの——スペクトログラムというのだそうだ——から、音声を再構成しているのだという。それが倫理的にどうこうという話で、当局があわてて止めようとしている、と書いてあった。雑誌の日付は三年前だった。

診察の順番が来るまで、まだ三十分ほどあった。僕は雑誌を伏せて、向かいの壁の案内掲示板をぼんやり眺めた。整形外科・内科・小児科、と三段に並んでいて、小児科の案内だけが黄色い紙だった。

そうしているうちに、急に、自分は祖父の声をもう覚えていないということに気がついた。

祖父は僕が三十をいくつか過ぎた頃に亡くなった。葬式のあと、しばらくは祖父の口癖や、笑い方や、電話口で「はい、はい」と二度区切って言う癖を、まだはっきり覚えていた。覚えているつもりだった、と書いたほうが正しいかもしれない。というのは、四十年あまりたった今、その「はい、はい」がどんな高さで、どんな速さで、どんな乾き方をしていたのか、もうまったく思い出せないからだ。

「はい、はい」という文字の並びだけが残っていて、音が抜けている。

パイロットの声の話に戻る。記事によれば、復元された声は遺族にとってつらい問題になっているらしい。それはそうだろうな、と思った。亡くなった人の最後の数秒間の声が、見ず知らずの誰かの手で取り出されて、インターネットのどこかで再生されている——というのは、想像しただけでも肌が冷える話だ。

けれども僕がそのとき考えていたのは、もう少し別のことだった。仮に、と僕は掲示板の黄色い紙を見ながら考えた。仮に、祖父の声がどこかに残っていて、それをAIが「これがあなたの祖父の声です」と差し出してきたとしたら、僕はそれを聞きたいと思うだろうか。

たぶん聞かない。あるいは、一度聞いて、それから二度と聞かない。

なぜなら、それは祖父の声ではあっても、僕の覚えていた祖父の声ではないからだ。僕の覚えていた祖父の声というのは、もうどこにも残っていない。僕の頭の中にだけ、それも「はい、はい」という文字の形をしたまま、音を失った状態で保管されている。本物の音はとうに蒸発してしまった。蒸発したあとの空白を、僕は四十年かけて自分なりに埋めてきた。低い声だっただろうか。少し笑い混じりだっただろうか。早口だっただろうか。そういう自分の編集を経て出来上がった「祖父の声らしきもの」が、今の僕の中にある。

復元された声は、たぶんそれを上書きしてしまう。正確な情報が、不正確な記憶を駆逐する。それが良いことなのか悪いことなのか、僕にはうまく言えない。ただ、上書きされたあとに残るのは、僕にとっての祖父ではない別の何かだろう、という予感だけはある。

そういえば、これも今思い出したのだけれど、祖父は電話を切る時、必ず受話器を一度持ち上げてから戻すような癖があった。普通の人が「ガチャン」と置くところを、祖父は「カチャ、コトン」と二段階で置いた。あの「カチャ、コトン」の音だけは、なぜか今でも耳の奥に残っている。声は忘れたのに、受話器を置く音は覚えている。

ちなみに先週、台所の引き出しの奥から、二十年くらい前のテレフォンカードが三枚出てきた。一枚は富士山の絵、一枚はどこかの美術館の看板、一枚は何も印刷されていない真っ白なやつだった。誰がいつ買ったものなのか、まったく見当もつかない。妻に訊いたら、僕のものでしょう、と言われた。僕のものではない気がするのだが、家には僕と妻しかいないのだから、消去法でそうなる、ということになる。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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