蝶番のねじ

先週、知人からの短いメールに、面白い話が書いてあった。なんでも「無視する」という意味の英単語をグーグルで検索すると、AIの検索画面が動かなくなってしまうらしい。指示を上書きする働きを持つ言葉なので、AIが自分自身を無視してしまって、止まってしまうということのようだ。詳しい仕組みは僕にはよくわからない。ただ、その話を読んだあとで、シンクで茶碗を洗いながら、ずいぶん長いあいだそのことを考えていた。

言葉に、そういう作用があるというのが、なんだか可笑しかった。たった一つの単語が、何兆という計算をする機械を黙らせる。建物を建てるのにずいぶん金をかけたのに、玄関のドアの蝶番の小さなねじが一本外れていて、誰も中に入れない、というような話に近い。

それで思い出したのが、小学校の四年生か五年生のときのことだ。担任は田中先生という、白髪まじりで、いつも灰色のカーディガンを着ていた人だった。授業中、誰かが何かの拍子に、ある言葉を口にした。今となってはその言葉が何だったのかうまく思い出せない——本当のところを言うと思い出せるのだが、ここに書くと先生との約束を破ることになるような気がして、書かないでおく——ともかく、ある言葉を口にした。田中先生は黒板の前で振り返って、その子の名前を呼んで、こう言った。「その言葉は、この教室では使わないこと」。怒鳴ったわけではない。落ち着いた、いつもの声だった。

不思議なもので、その日から、僕の頭の中はその言葉でいっぱいになってしまった。家に帰る道でも、夕飯のとき味噌汁をすすりながらでも、布団の中でも、その言葉が頭の隅でちらちらと光っていた。それまでは別になんとも思っていなかった、ごく普通の言葉である。クラスのみんなも、たぶん同じ気持ちだったのだろう。休み時間になると、誰かが小声でその言葉を言って、別の誰かが「先生に言いつけるぞ」と言って、それで二人で笑う、というようなことが何日も続いた。先生はもう何も言わなかった。たぶん、わざと黙っていたのだと思う。

それまでは廊下に転がっている小石みたいなものだったのが、急に金属の塊に変わる。

結局、僕は六十年以上経った今でも、その言葉を覚えている。こうしてわざわざ書いている。田中先生はもうずいぶん前に亡くなったと、同窓会の連絡で聞いた。あの先生が、なぜあの言葉を禁じたのか、本当のところは今でもわからない。先生はそれをわかっていたのだろうか。わかっていなかったような気もするし、案外わかっていたような気もする。

昔、その言葉を辞書で調べたことがある。意味の説明はそっけなかった。五行ほどの解説と、用例が二つ。隣のページにも、その隣のページにも、似たような言葉がたくさん並んでいた。

台所の窓の外では、隣の家の物干し竿に、薄い水色のシャツが二枚、まったく同じ間隔で干されている。風はほとんどなく、シャツは動かない。それから、冷蔵庫の中のヨーグルトの賞味期限は、今朝確認したら三日前に切れていた。誰も食べていないのに、勝手に切れていた。妻に言うと「あなたが買ってきたんでしょう」と言われそうなので、まだ言っていない。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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