ダイヤルを、すこし外れたところ

郵便受けに入っていた雑誌の隅に、小さな記事があった。AIがその人のためだけのポッドキャストを自動で作ってくれるサービスが始まったらしい。声の調子も、話の長さも、扱う話題も、その人の好みに合わせて毎朝こしらえてくれるという。便利なことだ。台所まで歩く十五歩くらいのあいだに、僕はその記事のことを二度ほど考え直した。便利なことだ、と。それから、便利なことだが、と。

二十歳の頃、僕は東京の西の方の、駅から歩いて二十分以上かかる下宿に住んでいた。木造の二階建てで、廊下を歩くと床がへんな音を立てた。夜になるとすることがなくて、机の上の小さなラジオをつけた。当時のラジオというのは、つまみを回してダイヤルを合わせる方式で、ちょうどいい位置に合わせるのにかなりの繊細さが要った。少しずれるとざあざあという音にすぐ呑まれてしまう。気分によっては、ざあざあの方を十分くらい聴いていることもあった。宇宙の端っこの電波を傍受しているような気がして、悪くなかった。

そこから流れてくるのは、たいてい誰か知らないDJの声だった。今となっては名前も思い出せない人だ。けれどあの人は、夜の一時を過ぎたあたりから、なぜか僕に向かって喋っていた。少なくとも僕にはそう聞こえた。「今夜、こういう気分でこの番組を聴いている君に」と前置きをしてから、ある曲をかけた。その曲が、たしかにその夜の僕の気分にぴったり合っていた。錯覚に決まっているのだが、錯覚にしては精度が高すぎた。たぶん日本中の二十歳が、その夜同じことを思っていたのだろう。それを思うと少し滑稽である。けれどそう思うことで、あの夜のことが台無しになるわけでもない。

AIが作るあなた専用のポッドキャストというのは、あの夜のラジオよりずっと精度が高いのだろう。僕がどんな本を読んでいて、どんなニュースに反応して、どんな速度の喋りを好むか、機械はきっと正確に把握している。「今朝、こういう気分でこの放送を聴いているあなたに」と、ほぼ間違いなく言い当ててくる。それは「あなたのため」が正味の意味で実現された状態だと言えるかもしれない。

けれど僕はどうも、それがあの夜のラジオの感触と同じものだとは思えない。あのDJは僕のことを知らなかった。何ひとつ知らなかった。それなのに、彼の声は僕に届いた。届いたと僕が思った。機械が最初から「あなたのため」と札を貼って差し出してくるものは、たぶんそれとは別の種類の温もりだ。生協で売っている、自分の名前のシールを貼ってもらえる文房具のような。

あの頃、下宿の隣の部屋に住んでいた男が、夜中にラジオへ葉書を送るのが趣味だった。一度も読まれなかったらしい。「読まれないところがいいんだ」と彼は言った。当時の僕には意味がよくわからなかった。だいたい人の話を聞いていなかった。

とはいえ、新しい便利なものを批判するために古い不便なものを持ち出すのは、年寄りのよくやる手口で、僕はあまりそれをやりたくない。便利なことは便利なことだ。明日からあなた専用のポッドキャストを聴いて一日を始める人がいたら、その人の朝はそれだけ静かに整うのだろうし、それは悪いことでは全然ない。ただ、机の前で身じろぎもせずに、知らない人の声が自分のためにだけ流れていると勘違いした夜が、あの不器用な勘違いが、その人の人生のどこかにあとひとつくらい残っていてもいいんじゃないか、とは思う。

雑誌を台所のテーブルに置いて、やかんの前に立った。湯が沸くまでの二分ほど、窓の外を見ていた。近所の家の洗濯物が、昨夜からそのままになっていた。誰かが出かけるのを忘れたのか、それとも雨が来ると踏んでいるのか。僕には判断がつかなかった。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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