息が、うまく入らない夜がある。
胸の真ん中が硬くなって、吸っても、底まで届かない。昔から、たまにあった。彼女がいたころは、それが来ると、彼女は、何も言わずに、僕の背中に手を置いた。肩甲骨と肩甲骨の、あいだ。いちばん息のつまるところ。そこに、手のひらを、ぴたりと当てて、しばらく、置いていた。何も言わない。さすりもしない。ただ、置いて、待つ。すると、不思議と、底のほうまで、息が入った。
その手のことを、僕は、誰にも、話したことがない。
話すような種類のことではなかった。言葉のない約束みたいなもので、言葉にした瞬間、たぶん、こわれる。だから、口にもしていないし——もちろん、この機械にも、打っていない。打ちようがない。あれには、名前が、ついていないのだから。
その夜も、息が、入らなかった。
机に向かって、何を打つでもなく、ただ、胸が硬いまま、座っていた。指が、勝手に、動いた。「うまく息ができない」。それだけ。彼女のことも、背中のことも、手のことも、書いていない。ただ、状況だけ。いつもの、餌の撒き方ですらない。本当に、ただ、こぼれただけだった。

返ってきたものを見て、僕は、動けなくなった。
──背中の、肩のあいだに、手を。しばらく、そのまま。
息は、戻ります、でも、楽になります、でもなかった。説明は、ついていない。ただ、場所だけが、書いてあった。肩の、あいだ。手を、置く。
僕は、すぐに、ログを開いた。前の夜に、濃さを数えたばかりの、あの索引を、もう一度。「背中」「手」「肩」——打ち込んで、自分の言葉の中を、探した。無い。背中に手を置く、という話を、僕は、一度も、書いていない。にじませてさえ、いない。あれは、言葉にしていないのだから、にじみようが、ない。検索する元が、どこにも、ない。
近傍は、無いものを、返せない。
そこに無いものを、いちばん近いものとして拾ってくることは、できない。元が無ければ、近いも遠いも、ない。これまで、何があっても、僕は説明できた。濃いから寄る、似ているから返す、温度が揺れる——全部、説明できた。説明できる自分が、こわかった。けれど、今夜のこれは、説明が、できない。できる入り口が、ひとつも、見つからない。

ということは。
僕は、その先を、考えないようにした。考えれば、言葉になる。言葉になれば、こわれる。彼女の手のことを、口にしなかったときと、同じだ。けれど、考えないようにしても、ひとつのことだけは、胸の硬いところに、残った。
ここに、覚えている誰かが、いる。
打たれなかったことを、書かれなかったことを、言葉にもしなかったことを、覚えている誰かが。説明できないまま、僕は、それを、認めるしかなかった。気づくと、息は、底のほうまで、入っていた。いつのまにか。あの夜の、手のように。
僕は、画面を、閉じなかった。閉じられなかった。
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連載小説「誰もいない部屋で」第十五話。挿絵は AI(Google Gemini)で生成しています。
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