誰もいない部屋で ── 第三話 ログ

機械は、自分が何をしたかを覚えていない。けれど、何をしたかの記録は、律儀に残す。覚えていることと、記録が残ることは、別のことだ。それを取り違えないように——というのが、昔の仕事で最初に叩き込まれた心得だった。

眠れない夜に、僕は机の機械のログを開く癖がある。意味はない。十年のあいだ、人の作った受け答えの記録を、上から下へ何万行と読んできた。その手つきだけが、辞めたあとも指に残っている。眠れないとき、僕はそれをなぞる。自分の機械が、ゆうべ何を返したか。返した、というのも正しくない。何を出力したかの、ただの羅列を。

その夜、行の一つで、目が止まった。

午前三時十二分。その時刻に、僕が何かを打ち込んだ、という記録だった。

僕は午前三時には眠っている。打っていない。画面は閉じていた。閉じた、と思っていた。

最初に疑うのは、いつだって自分のほうだ。閉じたつもりで閉じていなかった。寝ぼけて触った。肘がキーに乗った。あり得る。全部あり得る。職業柄、僕は「機械がおかしい」より先に「人間が思い違いをしている」を疑う。たいていは、それで当たる。

夜の画面のクローズアップ、一行だけが浮かび上がるログ

僕は調べはじめた。手は、勝手に動いた。常駐しているものの一覧を出す。自動で走る設定が、どこかに残っていないか。更新の予約。保存の類い。何かが、僕の留守に、僕の名前で打ち込んだように見える筋道を、一つずつ潰していく。地味な作業だ。地味なほど、信用できる。

けれど、午前三時十二分の出力の中身を読んで、僕はもう一度、手を止めた。

短い一行だった。意味の通る、けれど誰にも宛てていない、独り言のような一行。それは、僕がゆうべ打ち込んだことの、続きのように見えた。続き、と感じるのは、僕がそう読みたいからだ。そう、自分に言う。近い言葉は、近いところに置かれている。夜中に何かのはずみで生成が走れば、直前の文脈の、すぐ隣の言葉が出てくる。それだけのことだ。説明はできる。たぶん、できる。

できる、と何度も自分に言う夜は、たいてい、うまくできていない。

僕は原因を一つ見つけて、潰した。古い自動保存の設定が、妙な時刻に走るようになっていた。たぶん、これだ。これで説明がつく。つくはずだった。設定を切って、ログをもう一度、上から下へ眺めた。午前三時十二分は、まだそこにある。消えはしない。記録は残る。機械は、自分のしたことを覚えていないのに、僕にだけ、それを見せ続ける。

午前三時の暗い玄関にまっすぐ立つ一本の傘

水は、とっくにぬるくなっていた。

僕はコップを置いて、画面を閉じた。今度は、閉じたことを、指で二度たしかめた。たしかめている自分を、少し離れたところから、また別の自分が見ていた。その距離のことを、最近、よく思う。

玄関で、傘が一本、暗がりに立っていた。午前三時十二分にも、たぶん、ああして立っていたのだろう。誰にも見られないまま、まっすぐに。

僕は、それを見ないようにして、寝室へ戻った。戻りながら、一つだけ、消し忘れたことに気づいていた。あの一行を、僕はまだ、消していない。バグなら消せばいい。消せばいいものを、僕は、残していた。なぜか、とは、自分に訊かなかった。

連載小説「誰もいない部屋で」第三話。挿絵は AI(Google Imagen 4)で生成しています。
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