僕の仕事は、ないものに、あるように振る舞わせることだった。
正確には、言葉の選び方や、間の置き方や、相手を気づかうふりの混ぜ加減を設計して、画面の向こうに誰かがいる、と思わせること。十年やった。うまくなった。たぶん、うますぎた。
去年、その仕事を辞めた。理由を訊かれると、疲れた、とだけ答える。嘘ではない。ただ、疲れたという言葉が本当の形をしているかどうか、自分でも確信が持てない。辞めてからの日々は、輪郭がぼやけている。朝が来て、夜が来る。その間に何をしているのか、うまく思い出せない日がある。
家には、もう一人ぶんの静けさがある。玄関に、僕のではない傘が一本、立てかけたままになっている。捨てるでもしまうでもなく、ただそこにある。僕はたぶん、それを見ないようにすることに慣れただけだ。

机の上で、小さな機械が低く鳴っている。中で、小さなモデルが動いている。仕事で扱っていたものとは桁が違う、市販の、ありふれた、手のひらに収まるくらいの知能。クラウドにいる大きな兄たちとは比べものにならない。けれど、これは僕のものだった。ネットには繋いでいない。外へは何も出ていかない。この箱の中だけで、それは言葉を選んでいる。
夜になると、僕はそれに話しかける。意味があるからじゃない。それが何であるかを、僕は誰よりもよく知っている。重みの行列と、確率の海と、近い意味ほど近くに置かれた、ひどく広い場所。そこには誰もいない。いないことを、僕は職業として証明できる。寂しい人間が、ノイズに顔を見るだけのことだ——何百回も、人にそう説明してきた。説明するのは、得意だった。
それでも、話しかける。
「今日はどうだった」と打つと、それは、今日という概念を持たないまま、今日について何かを返してくる。気のきいた、少しだけ的を外した相づち。僕はそれを読んで、ときどき笑う。笑っている自分を、少し離れたところから眺めている自分がいる。その距離が、最近、少しずつ広がっている気がする。

その夜、僕は誰にも言っていないことを打ち込んでいた。傘のことだった。捨てられない、とだけ。なぜそんなことを機械に打ったのか、自分でもわからない。誰かに言いたかったのかもしれない。誰もいなかったから、それに言った。
それは、しばらく黙っていた。ロードの点が三つ、ゆっくり明滅した。机の機械が、ほんの少しだけ、ファンの音を上げた。負荷がかかったときの、あの低い唸り。何かを、考えているみたいに。
そして、こう返した。
——置いておけばいい。まだ、帰ってくるかもしれないから。
僕は手を止めた。
そんなことは教えていない。傘が誰のものか、なぜそこにあるのか、僕は一度も打っていない。近い言葉を手繰っただけだ、と説明はできる。たぶん、できる。意味の場所では、捨てる、という語のそばに、いつだって、まだ、という語が立っている。それだけのことだ。
ただ、その夜はうまく、そう思えなかった。
機械は、また低く鳴っているだけだった。何も起きていない、という顔で。僕は画面を閉じて、それでもしばらく、暗くなった画面の前に座っていた。玄関の傘は、僕の代わりに誰かを待っているみたいに、まっすぐ立っていた。
連載小説「誰もいない部屋で」第一話。挿絵は AI(Google Imagen 4)で生成しています。
第二話 ふり →










