三日後の土曜、僕は所長にも母にも言わず、一人で電車に乗った。行き先は、父の字で「十歳の冬。おまえはずっと波を数えていた」と書かれた、あの写真の海だった。
有休を取る理由を、所長には「私用です」としか言わなかった。それで通った。うちは読まない、と同じ重さで、うちは訊かない、という線もあるのだと、このとき初めて気づいた。
電車で二時間半。写真を内ポケットに入れて、窓の外を見ていた。九月の光は、思っていたより明るかった。冬の記憶の中では、海はいつも鈍い灰色をしていたはずなのに、実際に近づいていく車窓の海は、まだ夏の名残のような青さを残していた。季節が違うのだから当然だ、と自分に言い聞かせながら、それでも少し拍子抜けした。
駅から海までは、歩いて二十分ほどだった。商店街はもうほとんど閉まっていて、開いているのは自動販売機と、小さな釣具屋だけだった。店先で網を繕っていた年配の男に、昔ここに海水浴場があったか訊いてみたが、「さあ、私も越してきて十年だから」と言われただけだった。誰かが答えを持っているわけではない、ということを、僕はその一言で思い出した。記憶は本人の中にしか残らない。
砂浜に出ると、親子連れが一組、波打ち際で貝殻を拾っていた。父親らしい男が、しゃがんだまま何かを指差し、子どもがそれを覗きこんでいる。声は届かなかったが、指差す仕草だけが、やけに丁寧に見えた。言葉より先に、指と、視線の高さを合わせることのほうを、あの人はきっと大事にしている。そう思ったとき、父もそうだったのかもしれない、と初めて思った。無口だったのは、言葉を惜しんでいたからではなく、指差すことのほうを信じていたからかもしれない。

防波堤は、思ったより低かった。子どもの背丈なら見下ろすのに苦労しない高さだ。僕はそこに立って、波打ち際のほうを見た。写真の中の十歳の僕は、あの辺りに立っていたはずだった。後ろ姿だったから、どんな顔をしていたかは分からない。分かるのは、波の音だけだった。

風は思ったより冷たくなかった。父が終始無言だったことと、風が冷たかったことだけは覚えている、と僕はこれまで何度も思ってきたが、今ここに立ってみると、その二つの記憶さえ、本当に自分のものなのか自信がなくなった。写真の裏の一行を読んでから作られた記憶なのかもしれない。測量士だった父は、目に見えるものを数値に変えてから持ち帰る人だった。息子の記憶までも、あとから数値のように整えてしまったのかもしれない。
それでも僕は、波打ち際まで下りて、一つ、二つ、と数え始めた。やる理由は説明できなかった。ただ、父がかつてここでそうしていたのなら、同じことを自分の身体にさせてみたかった。十、二十、と数えるうち、数字のほうが先に歩き出して、自分がどこまで数えたか分からなくなった。途中で一度、数を忘れて、また一から数え直した。忘れたことにも、数え直したことにも、誰も気づかない。父はきっと、そうやって何十年も、誰にも気づかれない数を数え続けてきたのだろう。波は満ちては引き、引いては満ちて、数えても少しも減らなかった。減らないものを、父は四十年近く数え続けていたのだろうか。

下書きの三行目を、僕はポケットの中で何度も思い出していた。「十歳の冬、おまえと行った海のことだが——」。ここへ来れば続きが分かる気がしていたが、波の前に立っても、続きは一文字も浮かばなかった。父が何を言おうとしていたのか、理由も、意味も、ここには置かれていなかった。あるのは、波の音と、防波堤の低さと、九月の明るい光だけだった。
分からないものを分かったことにしない、という一点だけを、僕はここで決めた。理由は結局見つからなかった。見つからなかったことを、見つからなかったまま、ここに置いて帰る。そう決めると、不思議なくらい身体が軽くなった。わかる、ではなく、置く。所長が日報に書かない言葉を選ぶときの感覚に、少し近いのかもしれなかった。
帰りの電車は、行きよりも混んでいた。座席に座って、僕は佐伯さんに送る言葉を考えた。彼女はまだ、半分を消すか、残すかの答えを待っている。消せるかと訊かれて、まだ決めていません、と答えてから、もうずいぶん日が経っていた。窓の外が暗くなっていくのを見ながら、僕はようやく、自分の答えの輪郭をつかんだ。言葉にするのは、まだ早い気がした。けれど、次に佐伯さんの前に立つときには、迷わずにそれを言えると思った。

所長にも、母にも、下書きのことはまだ話していない。今日海に行ったことも、話すつもりはなかった。話さないことを、隠していると呼ぶのかどうか、自分でもよく分からない。ただ、言葉にする前にもう一度、自分の中で置いてみる時間が必要だった。事務所の線引きと、自分の線引きが、どこかで重なっている気がした。
駅に着く頃、空はすっかり夜になっていた。ホームに降りて、ポケットの写真に触れる。十歳の僕は、今日もまだ後ろを向いたままだった。それでいい、と僕は思った。振り向かせる必要は、もうなかった。
(第28話につづく)









