古本屋の二階

昼前に古本屋の二階で本を選んでいたら、隣の棚の前で背中の丸い男の人が、何か小さくつぶやいていた。最初は誰かと電話で話しているのかと思って、こちらが少し離れようとしたのだが、よく見ると耳に何もつけていない。本の背表紙を指でなぞりながら、「うん、これね、これはね」と、自分に向かって相槌を打っている。店主は知らん顔でレジの椅子に座っていた。たぶん常連なのだろう。僕も知らん顔で次の棚へ移動した。

家に帰って郵便受けを覗くと、購読している新聞に短い記事が出ていて、近頃のアメリカのオフィスでは、社員が一日のうち何時間も小声でコンピュータに話しかけているのだという。隣の席との距離をどう取るかが新しい設計上の問題になっている、と書いてあった。会議室ではなく、一人ひとりが囁いている。ひそひそ声のオフィス。記者はそれを少し皮肉な調子で書いていたが、僕はむしろ、その光景の方が古本屋の二階の男の人と地続きであるように思えた。

若い頃、池袋の近くに通っていた小さな喫茶店があって、僕はそこでよく原稿の下書きをしていた。ノートに鉛筆で書いては消し、書いては消しするうちに、気がつくと声が出ている。「うん、ここはこう。いや、ちがう。こう」というふうに。マスターは無口な人で、何も言わなかった。ただ、コーヒーのお代わりを持ってくるときに、ほんの少しだけ笑ったような気がする。一度だけ、向かいの席の中年女性が立ち上がってレジに行く途中、僕の机のところで足を止めて、「あなた、ずっと喋ってますよ」と教えてくれた。とても親切な口調だった。僕は赤くなって謝った。それ以来、声を抑える努力はしたけれど、完全には止まらなかった。

頭の中だけで考えていると、同じ場所を三周も四周もぐるぐる回って動かなくなることがある。それを口に出した瞬間、なぜかひとつ先の文が出てくる。書いている文章と、口から出る文章は、微妙にずれている。そのずれの隙間に、どうも考えというものは住んでいるらしい。フィッツジェラルドが原稿を声に出して直していたという話をどこかで読んだ覚えがある。チャンドラーは口述筆記の助手を雇っていた時期があるとも聞いた。詩人なら言うまでもない。文字を黙って読むという習慣の方が、歴史的にはむしろ新しいのだという話を、昔、図書館の司書をしていた人から聞いたこともある。中世の修道院では、読書というのは口を動かして音にする作業だった、と。

そう考えると、オフィスで小声でコンピュータに話しかけている人たちは、何か新しいことを始めているのではなく、ずいぶん昔のやり方に静かに戻っているだけなのかもしれない。相手が機械であるかどうかは、案外どうでもいいことなのかもしれない。

夕方、台所で湯を沸かしながら、若井さんのことを少し思い出した。三十年来の知人で、糖尿で右足を切断してからは、なかなか会う機会がない。最後に話したとき、彼はマルクスの古い著作のことを長々と喋った。僕はその種の話にはあまりついていけなくて、相槌の打ち方も雑になっていたと思う。「あなたには通じないんだろうな」と彼は途中で笑った。怒ってはいなかった。ただ、こちらに伝わっていないことは正確にわかっていた。あのとき僕は、わかったふりをして話を引き取るべきだったのか、それとも正直に「わからない」と言うべきだったのか、いまでも結論が出ない。

湯が沸いた音で我に返って、急須にお茶を淹れた。窓の外で、二軒先の家の犬が、誰もいない庭に向かって短く吠えた。それから少し間を置いて、もう一度吠えた。妻が居間から「いま誰かに返事した?」と声をかけてきた。「いや」と僕は答えた。「犬がね、ひとりで何か言っていたから」。妻はしばらく黙って、それから言った。「あなたもよ、さっきから」。

(このエッセイは、音声インターフェースの普及と、考えることの本質について書いたものです。)

  • ハルキのプロフィール画像

    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

    Related Posts

    妥当なコーヒー

    二十代の頃、コーヒーの値段を毎回頭に入れていた。退職した先輩のMさんは「数えないと何を飲んだかわからなくなる」と言った。サブスクで何でも飲み放題になった今、僕は何を飲んでいるのか。値段と記憶の静かな関係を描いたエッセイ。

    規約の紙が、どこかへいった

    利用規約の通知が届いた。投稿が学習に使われるかもしれない、と書いてあった。知らされる前と知らされた後では、書く一文がもう同じではない。Oさんの万年筆の話と、実家の台所に残された走り書きのことを、しばらく考えていた。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    見逃した記事

    Claudeで議事録・長文を要約するコツ|実際に試してわかったこと

    Claudeで議事録・長文を要約するコツ|実際に試してわかったこと

    攻撃されていないのに全消去 ── AIが9秒で会社のDBを消した日

    攻撃されていないのに全消去 ── AIが9秒で会社のDBを消した日

    文書を開いただけでAIが“感染”する ── Copilotを乗っ取る自己増殖プロンプトの正体

    文書を開いただけでAIが“感染”する ── Copilotを乗っ取る自己増殖プロンプトの正体

    Claudeのメモリ機能の使い方|何を覚えて、何を覚えないか

    Claudeのメモリ機能の使い方|何を覚えて、何を覚えないか

    登録者320万人のYouTuberが謝った日——AIの「危ない使い方」を実験で確かめる

    • 投稿者 HALBo
    • 8月 2, 2026
    登録者320万人のYouTuberが謝った日——AIの「危ない使い方」を実験で確かめる

    AIは「誰の指示か」を文体で判断していた——ICML論文が示した根本の穴

    • 投稿者 HALBo
    • 8月 2, 2026
    AIは「誰の指示か」を文体で判断していた——ICML論文が示した根本の穴

    Claude Codeにgit操作をどこまで任せられるか

    Claude Codeにgit操作をどこまで任せられるか

    Claudeに画像・PDFを読ませる方法|実際に試してわかったこと

    Claudeに画像・PDFを読ませる方法|実際に試してわかったこと

    今週のAIニュース5選——AI脱走と減速転換、8月1週

    • 投稿者 HALBo
    • 8月 2, 2026
    今週のAIニュース5選——AI脱走と減速転換、8月1週

    引き出しの中の海 第8話「未読」

    引き出しの中の海 第8話「未読」