朝刊に、海外の小さな記事が載っていた。あるロケット会社の株式公開が近づいていて、社員の何人かが急に大金を手にすることになるらしい。記者がそのうちの一人に「何に使うつもりか」と尋ねたところ、その人は少し考えてから「浜辺で、のんびりする」と答えた、と書いてあった。家を買うとか、子どもの学費に充てるとか、そういう答えが他に並んでいる中で、その一行だけが妙に光っていた。
僕はその記事を切り抜いてはいない。切り抜くほどのことでもない。ただ、新聞を畳んだあと、台所で薬缶に水を入れながら、しばらくその一行のことを考えていた。浜辺で、のんびりする。具体的に何をするのかは書かれていなかった。本人にも、はっきりとは見えていないのだろう。
もし僕に、急に半日の空白が降ってきたら、何をするだろうか。大金ではなくていい。たとえば午後の予定がそっくり消えて、夕方の五時まで何の用事もない、というような状況だ。原則として、僕の午後にはたいてい何かしらの用事が入っている。妻に頼まれた買い物だとか、図書館に返す本だとか、歯医者の予約だとか、そういう些末なものだが、それでも何かはある。だから完全な空白というのは、ここ数年ほとんど記憶にない。
想像してみる。まず、駅前の喫茶店に行ってコーヒーを飲む。一杯では物足りないので、二杯飲む。二杯目はずいぶん長く時間をかけて飲む。そのあいだ、特に何を考えるわけでもない。窓の外を、傘を持った人が通り過ぎる。雨も降っていないのに傘を持っている人がいて、僕はその理由を勝手にあれこれ想像する。午前中に降って、午後に上がったので、そのまま持ち歩いているのだろう。だいたい、そういう類の想像である。
そのあと、本屋に行く。買うものは決めていない。文庫の棚を一周して、それから美術書のあたりをもう一周する。二周するというのが大事で、一周だと「目当てのものを探しに来た客」になってしまう。二周すると「何をしに来たのか自分でもよく分からない客」になる。
家に帰る。帰って、何もしない。窓の外を見る。座椅子の角度を少しだけ変える。本棚から一冊抜き出して、最初の三ページだけ読んで戻す。それから台所に行って、何か食べるものを探すが、特に食べたいものはないので戻ってくる。そういうことを、夕方の五時まで続ける。
浜辺で、のんびりする、と答えたあの記事の技術者の方が、よほど詩的である。海も砂もない、駅前の喫茶店と本屋と、自分の家の窓辺。それが僕の「のんびり」の輪郭らしい。
そういえば、ずいぶん前のことになるが、卒業以来音信のなかった同級生から、一度だけ葉書が来たことがある。詳しい事情は書かれていなかったが、何かの拍子に少しまとまった時間ができたので、しばらく田舎の親戚の家にいる、という短い知らせだった。最後に「特に何もしていません。ただ朝起きて、昼寝をして、夕方になったら散歩をしています」と書いてあった。それだけの葉書だった。返事を書きそびれているうちに、住所のメモがどこかに行ってしまった。葉書そのものも、引き出しのどこかにあるはずだが、ここ十年ほど見ていない。
あの葉書を読んだとき、正直なところ、少し羨ましいと思った。同時に、自分には書けない種類の葉書だな、とも思った。半日空いたところで、僕は喫茶店と本屋の往復で埋めてしまう。あの葉書の差出人なら、あるいは言葉にできるのかもしれない。










