机の引き出しを整理していたら、薄い青い紙が一枚出てきた。航空書簡というやつで、便箋と封筒が一枚の紙になっていて、書き終わったあとに自分で折りたたんで端を糊で留めて投函する、そういう古い仕組みの紙だ。今ではもうほとんど見かけない。郵便局の窓口で「ありますか」と訊いても、若い局員はたぶんきょとんとした顔をするだろう。
その一枚は、書きかけて出さなかったものだった。宛先の欄が空白のままで、本文も三行ほどで止まっている。書いたのが何年前なのか、しばらく考えてもうまく思い出せなかった。ただ、書こうとした相手のことは、紙を見た瞬間にわかった。四十年以上前、ある語学学校の夏期コースで何週間か一緒だった男だ。名前の綴りは、今でも半分しか正確に思い出せない。発音もあやしい。それでも、彼が空港の搭乗口で振り返ったときの顔は、覚えている。
別れぎわに、彼はひとこと、「気がかりだ」というような意味のことを言った。何が気がかりなのかは、最後まで言わなかった。僕も訊かなかった。訊いてはいけないような気がしたのだ。あるいは、訊いても答えられないことを、彼の表情がすでに先に伝えていたのかもしれない。とにかく僕らは握手をして、彼はゲートの向こうに消え、それきりになった。
もちろん、これは僕がいま、机の前で勝手に組み立てている話で、あの男が実際にどう感じていたかはわからない。四十年というのは、記憶を勝手に編集するには十分すぎる時間である。彼がほんとうに「気がかりだ」と言ったのか、それとも僕が後年になってそう翻訳しただけなのか、それを確かめる方法はもうない。
ある仕事を引き受けるべきかどうか迷っているとき、書類の上ではすべてが整っていて、断る理由が見つからない。それなのに、胸のあたりに薄い違和感のようなものがある。風で動いたカーテンの端みたいに、注意していないと見落としてしまう程度の動き。けれど、その動きを無視して引き受けたときに限って、半年後あたりに具合の悪いことが起きる。そういう経験を、たぶん四回か五回はしている。
不思議なのは、その違和感を誰かに説明しようとすると、ほとんどうまくいかないことだ。「なんとなく嫌な感じがする」と言えば、相手は「具体的には?」と訊いてくる。具体的に言えるくらいなら、最初からこんなにもやもやしていない。データはない。論理もない。あるのは、台所で水を流しているときにふと頭をよぎる、誰の声でもない小さな声みたいなものだけだ。これを相手に渡すというのは、たとえばまだ固まっていないゼリーを素手で渡そうとするのに、いくらか似ている。
それでも、ごくまれに、こちらが言葉にしきれていないものを、相手がそのまま受け取ってくれることがある。「ああ、わかる気がする」とだけ言って、それ以上の説明を求めずに、こちらの判断を尊重してくれる人。そういう人に出会えたとき、僕は心の中で、静かに礼を言う。
あの語学学校の男も、そういう種類の人だったのかもしれない、と今になって思う。彼が「気がかりだ」と言ったとき、僕はその中身を訊かずに、ただうなずいた。若かった僕は、訊ねたら相手が崩れるかもしれない、ということを、なぜかその一瞬だけは知っていた。あとにも先にも、そういう勘の鋭さを発揮した記憶はあまりない。
書きかけの航空書簡を、僕はもう一度封筒のかたちに折ってみた。糊はとうに乾いていたが、折り目はまだ素直についた。出すあてのない手紙を、それでもしばらく机の上に置いておく。そういうことを、最近よくする。











