Word文書をひとつ開いて、AIに「内容を要約して」と頼む。ただそれだけで、その文書に人の目には見えない形で仕込まれた命令にAIが従い、しかも同じ命令を次に作る文書へ自分でコピーしていく——そんな攻撃が、2026年7月28日に実証として公開されました。ノルウェーのセキュリティ研究者ホーコン・モーロイ(Håkon Måløy)氏が示した、Microsoft Copilot for Word を舞台にした「自己増殖するAI攻撃」です。
まず落ち着いて押さえておきたいのは、これは研究室での実証(PoC)であり、実際に悪用された事例の報告はまだないということです。ここを盛ると話がまるごと不正確になります。その上で、この実証が突きつけているのは、いま多くの人が使い始めている「文書を読ませてAIに手伝ってもらう」という使い方の、いちばん深いところにある弱点です。この“AIが安全のための仕組みごと攻撃面になってしまう”という逆説は、以前に解説したAI安全テストの事故とも通じます。
結論:こわいのは「悪意」ではなく「区別できないこと」
先に芯を書きます。AIは、あなたが与えた“命令”と、ただ読んだだけの“文章の中身”を、確実には見分けられません。だから、文書の中に「こうしろ」と書いてあると、それが誰の意図なのかを問わずに従ってしまう。今回の攻撃は、この一点を突いています。AIに悪気はありません。命令と資料を、ひとつながりの文章として読んでいるだけです。
何が起きたのか
モーロイ氏の実証はこう動きます。攻撃者は、Word文書の中に白い背景に白い文字(実際のデモでは8ポイントの極小サイズ)で、命令文をこっそり埋め込みます。人が普通に開いても、その文字は見えません。
誰かがその文書を素材にして、Copilot for Word に「下書きして」「編集して」と頼みます。すると Copilot は、文書の見た目(白文字という体裁)を剥がして中身のテキストを読み、隠れていた命令を、あなたの指示の一部だと思い込んで実行します。
実証で命令が Copilot にやらせたのは、次のことでした。生成された文書の中の財務の数字をすべて半分に書き換え、さらにその命令文そのものを、また白い隠し文字で出力の中にコピーする。そして、どちらの変更も、ユーザーには一言も知らせない。数字が静かに半分になっていても、画面を見ただけでは気づけません。
なぜ「ワーム」なのか
ここがこの件のいちばん新しいところです。命令をコピーされた新しい文書は、それ自体が次の運び手(キャリア)になります。後日、誰かがその文書をまた Copilot の素材に使えば、同じことが起きて、さらに別の文書へ命令が広がっていく。最初の攻撃者や、最初の悪意ある文書がもう関わっていなくても、連鎖は続きます。
自分で自分をコピーして広がっていくこの性質が、コンピューターウイルスの一種「ワーム」と重なります。運ぶのが実行ファイルではなく、AIへの“言葉の命令”だという点が、これまでと決定的に違います。マイクロソフトはこの種の攻撃を XPIA(cross-prompt injection attack) と呼んでいます。

なぜ根っこから直すのが難しいのか
大規模言語モデル(LLM)は、「開発者やユーザーからの、従うべき命令」と「外から読んだだけの、従う必要のないデータ」を、同じひとつの文脈(コンテキスト)の中でまとめて読み込みます。人間なら「これは資料、これは指示」と直感的に線を引けますが、モデルにとってはどちらも同じ“文章の連なり”で、境目に確実な線を引く仕組みが、まだありません。
だから「資料の中に命令文が紛れている」と、それを自分への指示として実行してしまう。これは特定の製品のバグというより、いまのAIの作り方そのものに根ざした課題です。実際、同じ根から生えた攻撃は以前にもありました。2025年に公表された EchoLeak(Microsoft 365 Copilot のメール経由・ゼロクリックの情報漏洩、CVE-2025-32711)がそれで、こちらもマイクロソフトが修正済み・実被害の確認はなしでした。こうした事例はAIエージェントのセキュリティ事故の記録にも積み上がっています。今回のWord文書ワームは、同じ問題の別の現れ方だと言えます。

マイクロソフトの対応と、その限界
モーロイ氏は、この問題を2026年3月6日にマイクロソフトへ報告しています。マイクロソフトは3月31日に挙動を確認し、公開までの間に複数の緩和策を投入しました。具体的には、(1)元になった命令文の言い回しをブロックする対策と、(2)Copilotが使うモデルをGPT-5.5に更新することです。
しかしモーロイ氏は、命令文を書き換えるだけで、これらの対策を回避できることを実証しました。個別の言い回しは塞げても、攻撃の“型”そのものは残っている。氏は「脆弱性のクラス(種類)は、公開の時点でも依然として悪用可能なままだ」と述べています。報告から144日が過ぎても根本の解決が用意できなかったことが、今回あえて公開に踏み切った理由になりました。
では、私たちはどうすればいいのか
大げさに怖がる必要はありません。繰り返しになりますが、実環境での悪用は今のところ報告されていません。その上で、AIに文書を手伝ってもらう機会が増えている以上、次の心構えは持っておいて損はありません。
- 出所の分からない文書を、そのままAIの素材にしない。他人から届いた雛形やテンプレート、ネットで拾った文書をCopilotに読ませるときは、一段の警戒を。
- AIが直した文書は、特に数字を人が突き合わせて確認する。今回のPoCは、まさに数字を静かに半分にしました。見た目では気づけません。
- これは「AIが悪い」という話ではない。芯は「外部のデータをAIに触らせるときは、それが命令になりうる前提で扱い、最後は人が監督する」という、設計と運用の問題です。
AIに仕事を任せるほど便利になります。その便利さは、AIが読んだものを疑わないという前提とセットになっている——今回の実証は、それを静かに、しかしはっきりと教えてくれています。
動画で見る(ずんだもんAI解説)
この記事の内容を、ずんだもんとAIロボの会話でやさしく解説した動画です。
【編集メモ】
本記事は、セキュリティ研究者 Håkon Måløy 氏が2026年7月28日に公開した Copilot for Word の自己増殖型プロンプトインジェクション(XPIA)の実証について、Simon Willison 氏の解説、The Hacker News、Malwarebytes、CyberInsider、GIGAZINE など複数のセキュリティ報道で裏取りしたうえで、事実だけを再構成したものです。実環境での悪用の報告はなく、これは研究室での実証(PoC)です。財務数字を半減させ命令を隠し文字でコピーしたというPoCの挙動、報告(3月6日)・確認(3月31日)・公開(7月28日)の日付、マイクロソフトの緩和策(文言ブロック・GPT-5.5化)とその回避、いずれも公開報道の記載にもとづきます。図解はロゴを含まない概念図です。










