右下がりの文字

新聞でこんな記事を読んだ。アメリカのある裁判所では、最近、訴状の山が異様な厚さになっていて、判事が一日の大半をその選り分けに費やしているらしい。AIが書いたとおぼしき書類が紛れ込んでいるのだという。文章としては立派なものらしいのだが、引用されている判例が実在しなかったり、人物の名前が微妙に違っていたりするので、見抜くのにかえって時間がかかるそうだ。

記事を読みながら、僕は朝のコーヒーを冷ましていた。判事の名前はマリッツァ・ブラスウェルさんといって、写真ではきちんと髪を結って、机に積まれた書類の山の前に座っていた。気の毒に、と思った。

そういえば、と思い出したことがある。

三十年以上前のことだ。当時の僕は、ある人にどうしても言っておきたいことがあって、便箋を二枚ほど書いた。最初の一行は今でも覚えている。「先日のお話の件ですが、僕としてはやはり納得がいかず」——そういう書き出しだった。納得がいかないというのは事実だった。書きながら、自分でも顔が熱くなるのが分かった。二枚目に入って、三行ほど書いたところで、僕は万年筆を置いた。理由は今でもうまく説明できない。ただ、書いている自分の文字が、だんだん右下がりになっていくのが見えて、これはもう少し冷ましてからの方がいいな、と思った。

翌朝、便箋はそのまま机の上にあった。読み返してみると、自分が書いた文章なのに、まるで他人の書いた苦情のように読めた。言葉そのものは間違っていなかった。でも、その下にあるはずだった「本当に言いたかったこと」が、どこにも書かれていないことに気がついた。怒っている、という事実だけが二枚にわたって整然と並んでいて、なぜそれが悲しいのか、ということは一行も書かれていなかった。僕は便箋を畳んで、引き出しの奥にしまった。出さなかった。

その手紙は、たぶん今も実家の文机の、いちばん下の引き出しの底にある。封筒にも入れていないので、もう紙が乾いてぱりぱりしているはずだ。

出さなかった手紙の方が、出した手紙よりよく覚えている。出した手紙は、出した瞬間に手元から離れてしまうから、その後は相手の引き出しの中の話になる。でも出さなかった手紙は、ずっとこちら側に残る。残って、ときどき思い出されて、その都度少しずつ書き直されたりする。頭の中で、だけれど。

機械は止まらない。書きかけて、便箋を二枚目で置く、ということをしない。途中で顔が熱くなって、自分の文字が右下がりになっているのを見て、これは出さない方がいいかもしれない、と判断する瞬間がない。判断がないというより、そもそも「出さない」という選択肢が、書く行為と切り離せないものとして組み込まれていない。

先週、市役所の窓口で順番を待っていたら、前の席で初老の男性が小さな声で職員と話していた。書類の書き方が分からない、というようなことを言っていた。職員の女性は丁寧に説明していて、男性は何度も書き直していた。横から見ていると、彼の手元の用紙には、消しゴムで消した跡が何ヶ所もあった。彼は書いては消し、消しては書き直していた。たぶん十五分ほどそうしていた。

家に帰って、引き出しを少し探してみた。実家の机ではないので、あの手紙があるはずもないのだが、別の何かが出てくるかもしれないと思った。出てきたのは、十年ほど前の電気料金の領収書と、用途の分からない小さな鍵がひとつだった。鍵は手のひらにのせてみたが、何の鍵だったかまったく思い出せなかった。

「あなたが大事だって言ってしまっておいたんでしょう」と、妻は言った。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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