みどり、のテント

朝刊の片隅に、小さな記事があった。世界中の人が毎日のように使っているあの検索の窓のかたちが、二十五年ぶりに少しだけ変わるのだという。角が少し丸くなる。色の縁取りがほんの僅か変わる。要するにそういう類の話で、たぶん大半の人は気づきもしないで使い続けるのだろう。

記事を読んで、僕は新聞を畳んだ。それから畳んだ新聞をもう一度開いて、同じ記事をもう一度読んだ。

奇妙な気分だった。そのデザインが変わるという話に驚いたのではない。二十五年も同じものを毎日のように見ていながら、それが「同じである」ことに気づかずにいた、というのは、われながら少々間が抜けている。毎朝顔を合わせている隣人の眉のかたちを、いざ思い出そうとしてうまく思い出せない、というのに少し似ている。

そういえば、と僕は思った。駅前に「みどり」という小さな喫茶店があって、三十年近く前からそこにある。緑のテントの色が長年の日射しでほとんど灰色に近くなっていて、ガラス戸の右下の隅には誰かが昔貼ったらしい小さなシールの跡が剥がれかけたまま残っている。僕はその店に入ったことが一度しかない。たしか四十代の終わりに、雨宿りのために飛び込んで、コーヒーを一杯飲んだだけだった。けれどそれ以来、その前を通るたびに「ああ、まだあるな」と思っていた。たぶん週に二、三度は前を通っていたから、二十年で二千回くらいは「ああ、まだあるな」と思ったことになる。

その店が、去年の秋に閉まった。閉まったあとも看板はしばらくそのままで、僕はそのことに半年くらい気づかなかった。気づいたのは、ある日、テントが外されて店の名前が白い壁だけになっていたときだった。白い壁を見たときに、初めて自分が長年「みどり」のテントの色を見ていたことに気づいた。

知り合いに、H君という蕎麦屋の二代目をしている男がいる。といっても僕より十くらい年下で、初老というよりは中年の終わりくらいだろうか。彼の店は親父さんの代からの店で、暖簾の文字が独特の細い筆字で書かれている。先日、その暖簾を新調したのだという話を、年賀状のついでみたいな短い手紙で知らせてきた。「先代の筆跡をなぞって書き直してもらいました」と、いささか申し訳なさそうな調子で書いてあった。

家の本棚の隅に、もう三十年以上前に買った国語辞典がある。表紙が擦り切れて、背表紙の文字が半分剥がれている。引きたい言葉があるとき、僕は今でもときどきこれを開く。新しい辞書はもう買っていない。新しい辞書には載っているけれど、こちらには載っていない言葉がたくさんあるはずだが、そういう言葉については、たぶん辞書を引かないままになっている。原則として、ということだが、僕は引けないものについては困らないらしい。困らないので、辞書を新しくする必要を感じない。

たぶん最初の一週間くらいは、「あれ、なんか違うな」と思う人が何割かいるだろう。残りの何割かは、最初から気づかない。そして一週間か十日もすれば、気づいた人たちも気づかなくなる。新しいかたちが、いつのまにか「ずっとそうだったもの」になる。「みどり」のテントの色も、たぶん最初は誰かが選んで張ったものだった。誰かが「この緑にしよう」と決めて、職人さんがその布を縫って、店主が脚立に乗ってかけたはずだ。けれどその経緯は、二十年も経つと風景の中に溶けてしまって、もう誰のものでもなくなる。

「ねえ」と僕は妻に向かって言いかけて、黙った。台所では妻が湯呑みを片付けていて、湯呑みが棚の中で小さく鳴った。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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