第三章「AI の歴史を紐解く」の二本目。序章で広げた75年の地図の、いちばん最初の土地に足を下ろします。1956年の夏のダートマス会議と、その直後に生まれた"見る機械"パーセプトロン。AI の出発点とされるこの二つ、実際に何があったのか ── 近づいてみると、教科書的な「輝かしい誕生」とは少し違う、生々しい風景が見えてきます。
「人工知能」という言葉が生まれた夏
1956年の夏、アメリカ・ニューハンプシャー州の小さな町ハノーバーにあるダートマス大学に、研究者たちが集まりました。呼びかけたのは、ジョン・マッカーシー、マービン・ミンスキー、ナサニエル・ロチェスター、クロード・シャノンの4人。資金は、ロックフェラー財団から。申請額1万3,500ドルに対し、下りたのは7,500ドルでした。
この会議の提案書に、有名な一文があります。「学習やその他あらゆる知能の側面は、原理的に、機械で模倣できるほど精密に記述できる」。そしてマッカーシーは、この新しい分野に名前を与えました ── 「Artificial Intelligence(人工知能)」。それまで「サイバネティクス」「オートマトン理論」などバラバラに呼ばれていた研究が、ここで一つの名前と目標のもとに束ねられた。AI という学問が、正式に産声を上げた瞬間です。

Image: Google Gemini Nano Banana Pro (painterly, 本文連動生成)
ところが ── 協働は、ほとんど空回りした
ここからが、教科書があまり語らない部分です。この会議、実は「みんなで集まって何かを成し遂げた」わけではありませんでした。
2ヶ月の予定だったのに、参加者は同じ時期に集まらず、てんでバラバラにやってきた。全期間を通して滞在したのは、マッカーシー、ミンスキー、ソロモノフの、たった3人だけ。多くの参加者は短期間だけ顔を出し、しかも会議のためにというより、それぞれが元々進めていた自分の研究を、そのまま続けていただけでした。マッカーシー自身が、後年(2006年の50周年イベントで)正直に振り返っています ── 期待したような共同研究は、起こらなかった、と。
つまりダートマス会議の本当の意義は、「画期的な成果が生まれた場」ではなく、「分野に名前と目標を与え、後に AI を牽引する人脈が一堂に会した場」だったんです。彼らはこのあと、MIT、スタンフォード、カーネギーメロンに散り、それぞれが AI 研究の拠点を築いていく。会議そのものより、会議が結んだ縁のほうが、歴史を動かした。
たった一つの「動くもの」、そして冷ややかな反応
そんな空回り気味の会議に、一つだけ、実際に動くプログラムが持ち込まれていました。ニューウェル、ショー、サイモンの三人による「Logic Theorist(論理理論家)」です。
これは、自動で論理推論をして数学の定理を証明する、世界初のプログラムでした。どれくらい本物だったか。数学の古典『プリンキピア・マテマティカ』第2章の定理52本のうち、38本を自力で証明してみせた。しかも、ある定理については、原著者ラッセルが手作業で書いた証明よりも短くエレガントな証明を見つけてしまった。これを見たラッセル本人が、大いに喜んだと伝わっています。いまでは「最初の人工知能プログラム」と呼ばれるものです。
ところが ── ここがこの回のいちばん皮肉なところですが ── 会議でこれを発表したときの、ほかの参加者の反応は「冷ややか」でした。開発した二人は「お前たちが探しているものの実物を、もう作ってきたぞ」という自負で乗り込んだのに、その長期的な重要性に気づいた人は、ほとんどいなかった。歴史を変える成果が、その場では誰にも注目されない。よくある話なのかもしれません。
そして「見る機械」がやってきた ── パーセプトロンの実物
会議の翌年あたりから、もう一つの流れが立ち上がります。フランク・ローゼンブラットが作った「パーセプトロン」です。いまでこそニューラルネットの祖先として教科書に載っていますが、当時のそれは、ソフトウェアではなく ── 巨大な物理マシンでした。
「Mark I パーセプトロン」と名付けられたその機械は、こんな代物です。カメラの部分に、20×20のグリッド状に並んだ400個の光センサー(硫化カドミウム光電池)。これで画像を400個の光の点として取り込む。センサーから次の層への配線は、生き物の網膜の神経を真似て、わざとランダムに繋がれていた。そして肝心の「重み」── いまの AI なら数値として持っているもの ── は、なんとポテンショメータ(可変抵抗器)という物理部品で表現され、学習のたびに電気モーターがその抵抗器を物理的に回して調整したのです。AI が学ぶ、とは、文字どおりモーターが唸って部品を回すことだった。

Image: Mark I Perceptron operator’s manual Figure 2 (1960) by John C. Hay & Albert E. Murray. Public Domain. Source: Wikimedia Commons
この機械が何をしたか。紙の印が右にあるか左にあるか。正方形と円、正方形とひし形の区別。文字の「X」と「E」の見分け。いまの目には素朴ですが、機械が「見て」「学んで」「分類する」を実際にやってのけた、初めての実物でした。1960年に公開され、その実機は今もスミソニアン博物館に保管されています。
そして、最初の「約束しすぎ」が始まった
パーセプトロンは熱狂を呼びました。そして、ここで 序章で触れた「AI の冬」の伏線が、はっきり姿を現します。ローゼンブラットは資金申請書で「いずれ概念を形成し、言語を翻訳し、軍事情報を照合できるようになる」と書いた。1958年の海軍主催の記者会見を受けて、ニューヨーク・タイムズは「やがて歩き、話し、見て、書き、自分を複製し、自分の存在を意識するようになると(海軍は)期待している」と報じた。ある雑誌は「人間の脳の、初の本格的なライバルだ」とまで書いた。
もちろん、当時のパーセプトロンにそんな力はありません。図形と文字を見分けるのが精一杯でした。能力と、約束されたことの間に、とてつもない距離があった。この距離こそが、十数年後に最初の「冬」を呼び込みます。研究者の一人は後にこう振り返っています ── 誰もが「誇張がふくらんでいく網」に捕らわれていた。次の資金申請で前回より控えめな約束はできず、つい、もっと約束してしまった、と。
こうして見ると、AI の物語は、最初の夏から、もう「過剰な期待」と「地道な実物」の二重奏で始まっていたことが分かります。空回りした会議が分野に名前を与え、誰にも注目されなかったプログラムが知性の扉を開け、モーターで重みを回す機械が「学習」を実演し、そして約束は、いつも能力の少し先を走っていた。
次回は、この熱狂がどう冷えていったのか ── 最初の「AI の冬」に、足を踏み入れてみたいと思います。約束を果たせなかったとき、人と機械の物語は、どうなったのでしょうか。
続きを読む(第三章 第3話)
約束は、いつも能力の少し先を走っていた ── では、その請求書が回ってきたとき、何が起きたのか。三つの霜と、「本当に冬だったのか」という問い直し、雪の下で芽吹いていた地下水脈の話。










