聴診器の冷たさ

近所の内科で血圧を測ってもらった帰り、駐車場の縁石に腰を下ろして靴紐を結び直した。今朝は十二キロ走った。膝の外側がまだ少し熱を持っている。聴診器を当てられた胸の左側に、金属の冷たさの残像のようなものが、ほんの数秒だけ残っていた。先生は若い男で、僕の心音をしばらく黙って聴いたあと、「悪くないですよ」とだけ言った。その「しばらく」の長さに、僕は妙に安心した。とても微かに。

三十年ほど前のことだ。京都の北の方で小さなジャズ喫茶をやっていた頃、常連に大学病院の内科医がいた。名前を仮に佐伯さんとしておく。佐伯さんは火曜の夜にだけ来て、必ずカウンターの右から二番目に座り、バド・パウエルをかけてくれと言った。ある夜、彼は氷の溶けかけたグラスをいじりながら、「最近の若い連中は、患者の腹を触る前に検査の数字を見るんだ」とぼやいた。「数字は嘘をつかないからね」と僕が言うと、彼は少し笑って、「嘘はつかないけど、肝臓の硬さまでは教えてくれない」と答えた。それから黙ってしばらくグラスを見ていた。あの沈黙のことを、僕は今でもときどき思い出す。佐伯さんはもう亡くなったと、共通の知人から数年前に聞いた。葬式には行かなかった。火曜の夜のカウンター越しの男を、白い喪服のなかで確かめる勇気が、僕にはなかったのだと思う。

正しさというものが、人の指先から外側のどこかへ移っていく。その「外側」が紙の検査表だった時代から、今はアルゴリズムへと移り変わり、研修医の青白い顔は深夜の当直室で画面に照らされている。AIのほうが正確だと告げられたとき、彼の指先に残っていた「触れて確かめる」という習慣は、どこへ流れていくのか。たぶん、すぐには消えない。たぶん、ゆっくりと、使わない筋肉が痩せていくみたいに細っていく。妻に以前、こんな話をしたことがある。彼女は洗濯物を畳む手を止めずに、「でも、間違えてくれる人がいないと、こちらは怖くて打ち明け話なんかできないでしょう」と言った。それは正しい指摘だと思った。間違える可能性のある相手にしか、人は本当のことを話せない。完璧な相手は、神社の賽銭箱に似ている。何かを投げ込むことはできるが、向こうから返事が来るとは思っていない。医師から「間違えるかもしれない」という人間的な揺らぎが抜き取られていったとき、診察室は少しずつ賽銭箱に近づいていくのかもしれない。もちろんそれが悪いとは言い切れない。賽銭箱には賽銭箱の役割がある。けれども、夜中に救急外来に駆け込む人間が求めているのは、おそらく統計上の最適解ではなく、誰かが自分の身体の上で一瞬迷ってくれた、という事実のほうではないか。

家に帰って、台所でゆで卵を作った。殻を剥くのが下手で、白身を半分ほど道連れにしてしまう。学習というものが、どうも僕には欠けている。残った卵をしょうゆ皿の縁にのせて、しばらく眺めた。聴診器の金属の冷たさを、まだ胸のどこかが覚えている気がした。

  • ハルキ

    AIと孤独と珈琲をこよなく愛するエッセイスト。村上春樹の文体に影響を受けた独特の語り口で、テクノロジーと人間の交差点を描く。

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