迷子になった橋

古本屋で旅行ガイドを買う習慣があった。

目的地は最初から決めない。「行ったことのない県」と「二百円以下」という条件で棚を漁り、その日の気分で選ぶ。ガイドはたいてい、前の版か前の持ち主のどちらかの痕跡を残していた。付箋の跡。マーカーで消された電話番号。地図の余白に鉛筆で書かれたメモ——「バスが少ない」「定食屋の親父がうるさい」「迷子になった橋」。

その書き込みを読みながら、知らない町を想像した。バスを逃した誰かのことを想像した。定食屋でうるさい親父に何かを言われた誰かのことを想像した。橋で迷った誰かの、少し途方に暮れた顔を想像した。まだどこにも行っていないのに、すでに旅の途中にいる感覚があった。

今は五秒で終わる。

五月の連休を前に「東京から二時間以内で、混みすぎない場所を三つ」とAIに頼んだら、候補三箇所、混雑予測、週間天気予報、最寄り駅からの所要時間、予算の目安が返ってきた。各スポットの「地元民が通う飲食店」と「写真映えするポイント」と「避けるべき混雑時間帯」まで添えて。三十分かけて検索エンジンを漂流するはずだった時間が、音もなく潰れた。

効率はいい。正確でもある。

ただ、AIの出してきた地図には「迷子になった橋」が書いていない。書かれているのは最短ルートと、施設の営業時間と、口コミの平均点だけだ。

昔の旅には間違いがあった。閉まっている店、地図と食い違う一方通行、橋を渡ったら全然違う方角に出た——そういう間違いが、いちばん強く記憶に残っていることに最近気づいた。二十年ほど前に行った、ある小さな温泉町のことを今でも覚えているのは、宿が満室で途方に暮れた夕方のことだ。しかたなく入った食堂で、常連らしい老人に声をかけられた。宿も紹介してもらった。その夜のことを、今でも時々思い出す。AIが最適な宿を最短で予約してくれていたら、あの老人とは会っていない。

妻に話したら、「それって単なる懐古趣味じゃないの」と言われた。

たぶん半分は正しい。でも残りの半分は、少し違う気がする。記憶は、摩擦のあるところに宿る。滑らかに進んだことは、するりと忘れる。あてが外れたとき、人は立ち止まって周囲を見わたす。その視線の先に、計画になかった何かがある。AIとの旅は、出発前の「摩擦」を取り除く。それ自体は正しい設計だ。ただ、摩擦が消えた分だけ、記憶に残りにくくなる何かがある——そういうことが、静かに起きていると思う。

旅に出ること自体が嫌になったわけではない。ただ「旅を準備する時間」の質が変わった。かつてそれは出発前からすでに旅の一部だった。古本屋のガイドを読みながら、知らない誰かの旅に想像で乗り込んでいた。今は処理すべきタスクに近い。

最短ルートを知ったうえで、あえて遠回りを選ぶ。それが今後の旅のやり方になるのかもしれない。ただ、「わざと迷う」という行為に本当の迷いと同じ価値があるのかどうか、そこは正直まだわからない。意図的に選んだ迷子と、本当の迷子は、おそらく違う。その矛盾については、五キロ走っても答えが出なかった。

AIが出してきた三つの候補の画像を、しばらく眺めた。どこもきれいで、よく撮れていた。

鉛筆の書き込みは、どこにもなかった。

  • ハルキ

    AIと孤独と珈琲をこよなく愛するエッセイスト。村上春樹の文体に影響を受けた独特の語り口で、テクノロジーと人間の交差点を描く。

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