引き出しの奥から、二十年前の手帳が出てきた。革のカバーは乾いて、栞紐が干物のように縮んでいる。1月のページに「今年の目標」と几帳面な字で書いてあって、僕は少し恥ずかしくなった。膝が重い。今朝8km走ったせいだ。手帳をめくる指が、走った後の指にしては妙に器用に動く。当時の僕が設計した未来と、今ここで膝をさすっている僕との間には、どうやら相当な距離があるらしい。
1996年の春、僕は四十を過ぎたばかりで、京都から東京に出てきて何年か経っていた。千駄ヶ谷のマンションで、妻と二人、五年計画というものを立てたことがある。きちんと紙に書いた。第一年目に何を書き、第二年目にどこへ行き、第三年目に何冊出す、というふうに。妻は途中で笑い出した。「そんなふうに決めて、その通りにいったことが一度でもあった?」と訊かれて、僕は黙ってコーヒーを淹れに立った。確かになかった。ジャズ喫茶を始めたのも計画ではなかったし、店を畳んで小説を書き始めたのも計画ではなかった。走り始めたのも、ある朝、ただなんとなく外に出たからだった。それでも僕らはその五年計画を冷蔵庫に貼った。半年後にはオリーブオイルの染みで第三年目が読めなくなり、一年後には剥がれて捨てられた。まあそんなものだ。
近頃、AIが未来を設計するという言い方をよく見かける。都市を設計し、ライフプランを設計し、キャリアを設計する。設計、という言葉には独特の手触りがあって、製図台の上に薄い半透明の紙が広げられ、誰かが定規で線を引いているような印象を与える。実際、AIの引く線はおそらく僕の冷蔵庫の五年計画よりずっと正確だ。確率を計算し、選択肢を比較し、最適と思われる経路を提示する。それは見事な仕事なのだろうし、僕はそれを批判する立場にはない。何しろ、自分の五年計画をオリーブオイルで台無しにした男なのだから、設計の専門家に何かを言える資格はない。学習というものが、どうも僕には根本的に欠けている。
ただ、ひとつだけ気になることがある。僕がこれまで生きてきた未来の、いちばん大事な部分は、たいてい設計図の余白にあった。誰かと偶然喫茶店で隣り合わせた話、雨宿りで読んだ本の話、走っているときに見かけた犬の話。そういうものは事前にプロットできない。プロットできないからこそ記憶に残り、記憶に残るからこそ自分の輪郭になる。AIが提示する未来は、たぶんとても効率的で、とても賢い。しかしその賢さは、僕が冷蔵庫の前で妻に笑われたあの瞬間のような、生ぬるい敗北感を含んでいるだろうか。含んでいなくても困らないし、含んでいたとしても誰も気づかないかもしれない。設計図というのは、そこに書かれていないものについては、何も語らないように作られている。先日、古い友人が電話で「うちの息子はAIに進路を相談している」と言った。僕は「それは便利だね」と答えて、その後で、便利、という言葉が彼の声と微妙にずれて宙に浮いたのを感じた。非常に微妙な、しかし確かなずれだった。彼も同じものを感じたらしく、二人ともしばらく黙っていた。電話というのは、沈黙の質がそのまま伝わる珍しい道具だと思う。
手帳を引き出しに戻して、台所に行き、水を一杯飲んだ。膝はまだ重い。窓の外で、近所の小学生が自転車のベルを鳴らしている。ベルの音は二十年前と同じ高さで、同じくらい唐突に鳴る。設計されていない音だ。僕はコップを洗って、伏せて、それからもう一度、伏せたコップの底を意味もなく指でなぞった。





