数年前、画像生成AIが生み出すテキストは読めなかった。「OPEN」と書いたはずが「OPNE」になり、「CAFÉ」が「CAÉF」になった。それを見て笑った人は多かったはずだ。僕もその一人だった。
でも今振り返ると、あの文字列には奇妙な詩情があった気がする。
AIが人間の言語に触れようとして、届きかけて、でも届かない。その感触は、消印が滲んだ古い手紙に似ていた。宛先が一文字違う。でも届いてしまう。それを読んだ人だけが、なぜか少し温かい気持ちになる。
小学四年のとき、習字教室に通っていた。先生はいつも赤い墨で添削した。「とめ」「はね」「はらい」——三文字で書き直された僕の字の上に、先生の字が重なった。
その赤い重なりの部分に、毎週何かを感じた。うまくいかない自分の字と、補正しようとする赤い字が、一枚の紙の上に残っている。「対話の跡」と呼べるものだった。
ちなみに僕の字は今も下手だ。習字教室に三年通った成果がこれだというのは、われながら見事な無駄遣いだと思う。デジタル化してよかったと思うことの筆頭に来る。
AIの画像生成が進化するたびに、エラーが減っていく。文字化けが直り、指が五本になり、影が物理法則に従う。それは確かに改善だ。
でも改善されるたびに、見る側が画像に入り込む隙間が消えていく。
歪んだ文字を読もうとするとき、僕たちは能動的になる。「これはたぶん、O・P・E・N」と推測する。完璧な画像の前では、その推測が起きない。感心するが、揺さぶられない。
脚が取れた椅子を修理した後の椅子には、独特の座り心地がある。欠けていた場所を知っている椅子だ。
ロゴ制作の仕事をしている友人が、最近はAIに第一案を生成させていると言った。「全部作るわけじゃない、種まきに使う感じ」と。
スマートフォンの生成画像を見せてもらった。どれも整っていた。「で、ここから自分のものにしていく」と彼女は言った。なるほど、と思った。種まき。そういう言い方があるか、と思った。
AIが完璧な字を書けるようになった日、僕は少し寂しかった。それを誰かに言ったら「何が寂しいの」と言われそうで、言わなかった。確かに何が寂しいのか、うまく説明できない。
ただ「OPNE」と書かれたカフェの看板をもう一度見たい、と思うことが稀にある。たぶん、理由がないのが正解なのだろう。





