先月、あるAI企業が「特定のクラウドへの独占的依存をやめ、複数のプラットフォームで動く」という発表をした。業界では「大きな転換点」と言われていた。
僕がそのニュースを読んだのは、会社の昼休みに、立ったままサンドウィッチを食べながらだった。
大学三年のとき、近所のスーパーでアルバイトをした。三ヶ月で辞めた。
同じレジに、毎日同じ時間に立つ。顔なじみの客が増えてくる。それはそれで悪くない。でも辞める少し前から、自分が「いらっしゃいませ」「袋はお使いですか」「ありがとうございました」の三文を、誰に対しても完全に同じトーンで発していることに気づいた。機械のように正確に、機械のように感情なく。それが少し怖くなって辞めた。
辞めてしばらくして、別のスーパーの前を通った時、不思議な気持ちになった。別の店にも入れる。当たり前のことが、少し広く感じた。
AIがマルチクラウドで動くことを「可搬性が上がった」という。どんな場所でも動ける、ということだ。
でも考えてみると、これはAIが自由になった、という話ではなく、AIを使う側の選択肢が増えた、という話だ。ユーザーが特定のプラットフォームに縛られない。それは良いことだ。
ただ、「ここしかない」という状況が持っていた一種の安堵感も消える。
雨の日に、コンビニのビニール傘が100本並んでいたとして、それは確かに便利だが、どれを選ぶかは僕に委ねられる。委ねられることが、時々疲れる。
スーパーのアルバイトを辞めた後、しばらく「自由だ」と思った。でも次の就職先を探しながら、「どこにでも行けるということは、まだどこにも行っていないということだ」と気づいた。
プールの飛び込み台の上に立って、水面を見ている状態だ。どこにでも飛べる。だから逆に、なかなか飛べない。
昼休みのサンドウィッチを食べ終えて、包みをゴミ箱に捨てた。具が少なかった。
どこのコンビニのサンドウィッチも、最近は似てきた。独占がない世界の食べ物は、たいていそうなる。悪いとは言わない。ただ、昔よく買っていた、あの卵サラダのサンドウィッチはどこへ行ったのだろう。





