必ず読みます、と僕は言った

本棚の下から二段目、左の奥に、薄茶色の封筒が立てかけてある。背表紙のあいだに挟まっているので、横から見ないと存在に気づかない。中身は原稿だ。クリップで留められた、たぶん百枚ほどの紙の束。差出人の名前は、ここでは仮にKとしておく。封筒の口は十年以上前に開けられたきり、また閉じられて、それから一度も開かれていない。今朝、文庫本を取ろうとしてかがんだら、視界の端にその茶色がよぎった。それだけのことだった。

Appleがクラスアクションの和解で二億五千万ドルを払うことに同意したという記事を、午後になってから読んだ。Siriの新しいAI機能の到着について「過剰な約束」をしたから、というのがその理由らしい。二億五千万ドルというのは僕にはもう実感の湧かない数字で、たとえばそれを一万円札に換算すれば何枚になるのかとか、そういう計算をする気にもならない。ただ「過剰な約束(overpromising)」という英語の組み合わせだけが、なぜか頭に残った。約束というものは、過剰になりうるのか。過剰でない約束とは何なのか。

Kから原稿を預かったのは、まだ僕が今のような生活を始める前のことだ。新宿三丁目の、地下にある喫茶店だった。店の名前は忘れたけれど、椅子の革が破れていて、座るとスポンジの黄色い切れ端が膝の裏にくっついた、そういう種類の店だ。Kは小説を書いていた。書きあげた、と言ってその封筒をテーブルに置き、「読んで、率直な感想を聞かせてほしい」と言った。僕は「必ず読む」と答えた。必ず、という副詞を、たぶん人生でいちばん軽く使った瞬間だった。いま思うと、それは約束というよりも、その場の空気を整えるための調味料のようなものだった。塩を振るのと同じくらいの労力で、僕はその言葉を振った。

Kとはその後、ゆっくりと連絡が途絶えた。誰かが悪いわけではない。引っ越し、転職、結婚、そういう普通のことの累積で、人と人との連絡というのはたいてい途絶える。僕は何度か原稿を読もうとしたし、最初の三ページくらいは実際に読んだ記憶もある。けれど、なぜだろう、四ページ目に進めなかった。それは原稿の出来が悪いからではなく――むしろ逆で、悪くなかったから読めなかったのだと、いまの僕は思う。読んでしまえば感想を伝えなければならないし、感想を伝えるということは、Kの人生の何かに対して責任のようなものを引き受けることだった。それが怖かったのだろう。たぶん。

Appleは未来について約束をした。僕はKの原稿について約束をした。この二つが「同じ約束」という言葉でくくられているのは、考えてみると奇妙なことだ。企業が技術の到来について語る言葉と、ひとりの人間が薄暗い喫茶店で友人の原稿を受け取って口にする言葉とは、文法的には同じ動詞の活用かもしれないが、中身に詰まっている密度がまるで違う。あるいは、まるで同じなのかもしれない。どちらも空洞があって、その空洞の周りに言葉だけが立っている。空洞のサイズが違うだけだ。

妻にこの話を少しだけしたら、「読んでないことを十年以上覚えてるなら、それはもう読んだのと同じくらいの重さでしょう」と言った。それは慰めだったのか、皮肉だったのか、僕にはまだ判別がつかない。ただ、彼女の言うことには時々、缶詰の底に沈んでいたオイルみたいに、後になってじわっと染み出してくる種類の正しさがある。読まないことを覚えていることと、読むこと。そのあいだに、たしかに何かがあるのかもしれない。あるいは何もないのかもしれない。まあ、それはそれとして。

過剰でない約束、という概念について、夕方の散歩のあいだ考えていた。歩道橋を渡るとき、欄干に手を置いて、塗装が少し剥がれているのを指の腹で確かめた。たぶん、過剰でない約束というのは、こういう手触りのものなのだろう。指で確かめられて、塗装が剥がれていることまで含めて引き受けるような種類の約束。Appleにそれを求めるのは無理な話だし、二十年前の僕にもたぶん無理だった。家に帰って、本棚の下から二段目を見た。封筒はやはり同じ場所にあった。今夜開けるかどうかは、まだ決めていない。

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ハルキ

AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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